大学の国際化に必要とされるもの

 

選択的国際化

国際化や世界標準は一種の流行語であるが、研究費獲得のキーワードにもなっており、その「流行」はもはや「不易」の域に達しそうな程、根強いものとなっている。しかしながら、真の理解や客観的な価値の判断基準を伴わない「言葉の独り歩き」は、有害であり危険である。とりわけ「世界標準=絶対善」という短絡思考では、「欧米=絶対神」であった明治維新となんら変わらず、先進国の政策としてはあまりにもお粗末である。つまり、世界の大学の平均的な姿に日本の大学を近付ける事のみを考えていてはいけない訳で、大学の質の向上の為の戦略の一環として国際化を位置付けねばならないのである。大切なのは研究及び教育機関としての役割の強化であり、一つ一つの*世界標準*を評価し、取り入れる前に篩い分けねばならないという点を再確認したい。世界の常識や平均でも良くなければ自信を持って突っ撥ねる度胸は肝要である。

 

僕は毎年新入生に「みんなやっていますよ」と「みんなやっていますが」更に「誰もやっていませんが」が大切であると説いている。多くがやっている事で良い事はためらわずに行い、だが正しくなければ多勢にも逆い、そして先導的地位に立つべく新しい事を考案し実行するという意味である。これらは、誰の案であれ良い事はやる積極性と、孤立しても良くない事はしないという気概・気骨を要求する。ところで情け無いのは「みんなやっていますよ」であって、1980年代に世界に追いついた筈の日本が、いつの間にか欧米諸国だけではなく多くのアジア諸国にまで遅れを取ってしまい、ミニ明治維新が必要となったのである。

 

正の相互作用

国際化をもっと大きな大学の質の向上戦略の一環と考える様に、大学の国際化を日本の国際化戦略の一環と考える事も大切である。先ず大学を国際化し、国際感覚を備えた卒業生で社会を国際化する、という単純な議論では人口の半分を国際化するのに半世紀ほど掛かってしまう。したがって、大学と国全体の国際化を同時進行させるのであるが、社会全体の国際性の高まりが有れば、海外の学生や研究者を日本の大学に惹きつける事ができる。この様に大学と社会は国際化の過程で互いに正の相互作用を及ぼし合うのである。

 

最近のNGONPOの活躍に見られるように、御上主導の「トップダウン」方式が、民主導の「ボトムアップ」と両輪を形成して、初めてシステムが前進する。国は現場の声を吸い上げる一層の努力をし、反面、現場はその声を「押し上げる」努力を惜しんではならない。この「押し上げ」と「吸い上げ」は、インターネットに於ける「push」と「pull」又「uploading」と「downloading」の様に、健全なシステムという良貨の裏表なのである。とは言え、リーダーシップも大切であるから、1983Reagan大統領時代の米国でのベストセラー“A Nation At Risk: The Imperative for Educational Reform”(『危機に立つ国家』という教育白書)やイギリスのBlair首相の1997年の“I have three priorities: education, education, and education.”という有名な選挙演説の様に、経済政策に追われる日本政府にも何らかの起爆剤は提供して貰いたいと思う。ここにも正の相互作用が有る。

 

留学生の日本人学生化

「京大か、勉強は全然出来ないが、まあいいさ。せっせと単位を集めてとにかく卒業しろ。大学の名前で良い就職先が見つかるよ。」これは京都大学で学ぶマレーシア人の留学生が、出発前に受けたアドバイスらしい。いかにも生々しいが、まさにその通りだと認めざるを得ない。スイスに在るIMDInternational Institute for Management Development)という有名なビジネススクールの先進経済圏大学教育ランキングで、日本は堂々の最下位だ。その理由もふるっていて、「教官はまともな講義をせず、学生は全く勉強しない」と正に日本の大学教育の全否定である。ここに僕が「留学生の日本人学生化」と呼んでいる現象がある。自国では真面目に勉学に励んでいた学生が、日本人学生の怠慢振りを見て「水は低きに流れ」、自分達も怠慢になって行くという、本当に悲しい現象である。真面目な留学生を輸入して、京大生達に大学生のあるべき姿を見てもらおうという教官のもくろみは、かくして数週間にして灰燼に帰すのである。「日本の大学教育は世界の笑いものである」と言われるのも無理は無い。こういう危機的状況下にあっては、大学教育の「国際化」も大学教育全体の「構造改革・徹底的改善」と言う、もっと大きなフレームワークの中で考えなければならない。日本が“Another Nation At Risk”である事は、間違いないからである。このままでは21世紀の“brains-driven world”を生き延びる事は出来ないだろう。

 

以上がマクロな目で見た大学の国際化の意義と位置付けと戦略である。国際性の定義といった訓詁学的議論には意味が無いので、以下では教育改革と学生交流を通じた大学の国際化、具体的には学生の送り出し、留学生の受け入れ、そして英語教育について論ずる。大学教育後進国からの脱却を目指して。

 

日本人学生の送り出し

マニュアル人間、指示待ち人間と酷評される昨今の学生に海外経験を得させたければ、マニュアルに書き込む他は無い。すなわち、海外経験を卒業要件とするのである。そういう事をしても全くおかしくない時期に来てはいるが、その様な指示を出す以上、十分なサポート体制が背景に無ければならず、その中核をなすのは交換留学であろう。異文化理解の講義だけでは得られない実戦感覚を養うのが、日本での留学生との交流や海外への留学であり、とりわけ「home」と「away」という意味での、「away」を経験出来る事に留学の大きな意義がある。

 

留学交流とは文字通り*交流*であり、日本人学生の送り出しが5割を占めるべきであるが、これまでは受け入れに大きく偏っていた。実際文部科学省高等教育局留学生課が出している「我が国の留学生制度の概要 受入れ及び派遣」を見ても、副題が「受入れ及び派遣」であるにも拘らず、送り出しについての記述は四十四ページ中二三ページにとどまっている。しかし、日本に来る留学生数が95,550人であるのに対して、海外に留学する日本人も75千人以上とそれに匹敵する数である。特に日本の大学の国際化への効果を考える時、母校に籍を置いたまま海外の大学で学ぶ制度は非常に価値が高い。ところが、この交換留学制度が十分に活用されてはおらず、京都大学でも毎年40名あまりが参加するに過ぎない。これは、システムがuser friendlyではないからである。

 

制度の改善と拡張

先ず、学生交流協定が組織的な戦略に基づいて結ばれていない為に、学生のニーズに答えていない場合がある。京都大学では、英語圏への留学を希望する学生が圧倒的であるにも拘らず、非英語圏の協定校の方が多いという逆転現象が生じているが、これは計画的な締結や需要に応じた積極的な締結を行わず、先方から要請が有った場合や、政府や文部科学省のプログラムに受動的に参加できた場合にのみ締結を行った結果である。

 

更に、たとえば旧七帝大では理系の学生が人文社会系の二倍いるにも拘らず、実験など必須科目の多い理系学生を視野に入れた留学制度が無い。カリフォルニア大学より京都大学に対して、その様な学生の為の3ヶ月程度の交換留学の提案も有ったが、積極的な議論がなされたとは言えず、学生の為になる事であれば前例が無かろうが立ち上げの手間がかかろうが、できるだけやって行こうという気概は感じられなかった。実は、夏期も含め短期の留学を希望する学生は理系に限らず多い。短期の留学以外は無理な者、外国語の運用能力をつけることを主な目的とする者等学生のニーズは多様であり、多種多様なプログラムを提供する必要が有る。その中には、春期や夏期の集中的語学研修、海外でのインターンシップ等、大学間協定だけでは対応し切れない要求もあるので、社団法人日本国際学生技術研修協会(通称イアエステ)や海外の語学学校との提携など、将来的には間口が広く奥の深い交流プログラムの提供が必要である。

 

単位認定

但し、向こうの単位が認められなければ留学は非常に困難になる。「信じられない程いい加減な日本の大学が、交換留学生が日本にいた時の数十倍の努力をして、しかも英語の授業を受けて取った単位を認めないのか」とアメリカ人プロフェッサー。日本では同じ名前の講義でも、教官によって教科書や内容が全く異なるのは日常茶飯事であるから、内容のずれは理由にならない。良い講義であれば、海外でも他大学でも素直に価値を認めるのが、開かれた大学ではないだろうか。各大学の教務委員会のより柔軟な対応は、交換留学推進への強力な触媒となるだろう。

 

私費留学の奨励

ところで、プログラムの多様性を考えるにあたっては、個人で留学する学生のケアも無視し得ない。個人留学の場合、国立大学では在籍扱いにはならず、単位の移行も極めて難しいのが現状である。御上からの派遣留学は特別との見方が残っている様だが、マニュアル人間が跳梁する昨今、寧ろ自分で全てアレンジできる若者こそ尊いのではないだろうか。まともな大学で取った正式の単位であれば原則として認めるとの姿勢を早急に確立する必要がある。国内・国外を問わず、よその大学の講義を取る事が出来るのは素晴らしい事なのであるから。

 

留学生の受け入れ

正しい姿

本来留学とは、教育レベルの高さや優れた制度や文化に惹かれてする物であり、米国留学熱は正にこれである。然るに、我が国の留学生の多くは、必ずしも第一希望国が日本だった訳ではない。実際、筆者が知る理系の留学生の大半は、彼ら自身の弁によると第一志望のアメリカに行けなかった落ちこぼれである。日本語学習を押し付けられ、異分子扱いを受け続けた結果、多額の奨学金を貰いながら日本が大嫌いになって帰って行く人の多い事。留学生の一割に過ぎない国費留学生の奨学金は、学部が142,000円、大学院は184,000円と破格であるが、金でもっと根深い問題を解決しようとする日本は世界の笑いものである。奨学金の有無多少に拘らず、優秀な人材が大挙して大喜びでやって来る国と、多くの留学生が残念賞を貰う感覚で、不承不承やって来るだけの国との差は余りにも大きい。奨学金だけの政策が長続きする筈は無く、もっと抜本的な留学生政策の構造改革が必要である。高度経済成長期にあらゆる問題を絶対善としての経済発展に吸収させた結果現在の破綻が生じたのであり、この教訓を生かさない手は無い。国や大学を魅力的にすれば自然と留学希望者も増える、これが王道であろう。その人達の為に、アメリカのRATA制度の様な、少額でも十分且つ広範な受け皿を用意するのである。54422百万円という留学生交流関係予算の有効利用が待たれる。教育は質及び量だから。

 

品質管理

さて、質より量主義の典型と見られがちな留学生十万人計画であるが、僕の見方は違う。最初から質より量を優先した計画ではもちろんなく、達成度が測り易い明瞭な目標を掲げる事は、確かに有益であった。ただ、偏差値の様に受け入れ*数*だけが一人歩きしてしまい、成績に問題の有る留学生の大量流入を招いたのは本当に惜しまれる。アメリカの有名大学の理系大学院は4割がた留学生であり、成績最優秀者はほとんど留学生である。世界に冠たる大学院生教育が始めに有り、それに惹かれて学生が集中するという、極自然な留学生の獲得法の御手本がここにある。「留学生は非常に優秀なので大歓迎、手間もかからない(low-maintenance)」と教官が大変積極的なアメリカの大学院と、「日本語が出来ないのはまだしも、基礎すら出来ていない学生を何故無理矢理引き受けさせられるのか」と教官が怒り出す日本との差は大き過ぎる。自然な留学生の流れを奨学金などで無理矢理変えようとするのは、ある種の自然破壊であり環境破壊である。よりsustainableな戦略への転換が待たれる。

 

アメリカ+α

私費留学生選考制度も問題である。「日本留学試験」が平成14年度より海外でも実施されているが、日本留学の為の特化した試験では、マーケットシェアは拡大出来ない。アメリカと競争する為には、米国に提出するのと同様の書類を日本にも出せる様、システム改革を図る必要が有る。情報の氾濫する21世紀の多様化社会(borderlessの別の見方に過ぎない。)では、システムにも多様性を持たせ、例えば日本の通常の大学院入学試験や日本留学試験も受けられる様にすれば良い。Optionsが多いという意味での独自性なら、世界中の留学生予備軍に歓迎されるであろう。

 

情報提供

まず世界各国が共同で開催する大きな留学フェアなどに参加していないという問題が有る。日本だけで行う留学フェアは鎖国の現代版である。更に海外拠点の問題もある。カリフォルニア大学は東京スタディーセンターをはじめ世界の要所に出張所を持ち、教授を常駐させ現地の人間も雇って、留学生の世話と広報一般を行っている。実際に現地でのpresenceを確立することによって、顔の見える関係を見事に築いているのである。後発の日本がこれを見習わない手はないだろう。これらの問題に英語版Web siteの貧弱さやHomepageからapplicationを出す利便性の欠如が加わるので、対外競争力は落ちる一方である。

 

英語!英語!!英語!!!

人間は英語を話すもの

今や世界の人口の四分の一以上が話す英語。「人間は英語を話すもの」という英語時代に、日本人のTOEFLの平均スコアはアジア最低であり、英語の出来ない外交官まで居るらしい。日本がこういう状況に甘んじている内に、21世紀に要求される英語力は日本人には想像も出来ない程高い物になってしまった。これ以上の居眠りは許されない。英語教育の改善・改革と英語だけで勉学・研究が出来る学内環境を作る事は、国際化の中心的課題である。

 

運用能力

多くの大学での英語教育は、英語運用能力その物を軽視した特有のやり方で為されている。特に、小・中・高で語彙・文法・発音等の基礎は十分に固めてあるのに大学でその応用編が無いので、専門で役立つ英語力はまるで身に付かない。ネイティブスピーカーを始め英語教育の専門家を雇い、また専門分野の講義を英語で提供する事が急務である。学生としての勉学生活の一部を英語で送る事によってのみ、運用能力が身に付くからである。

 

卒業条件としての英語力

更に、accountabilityが盛んに口にされる昨今、学生にもその義務を課す。即ち、単位を揃えるだけではなく、例えばTOEFL250点(旧テストでは600点にあたる。これはドイツなどの平均点を遥かに下回り、このレベルでは運用能力は無きに等しい。)を取れない者は卒業させない等の荒療治を行う。TOEFLを選ぶ理由は、作文もあり二三年の内にspeakingも入るので、オールラウンドな力を測れる上、学生生活に関連した話題が多いからである。

 

訓練の機会の提供

さて、学生に厳しい要求を課す以上、大学側もそれなりの訓練環境を提供せねばならない、英語力の向上と既に述べた海外経験という卒業要件を満たす為の短期留学を夏期や春期の休業中に提供するのがその一例である。既出の海外拠点が有れば、そこを活用して地域との交流等もでき、それがまた日本人学生の国際性の向上と日本への留学の触媒というdouble dutyを果たす筈である。

 

アメリカの経済力や軍事力に対抗する為には、軍備の無い日本は21世紀の国力の重要な一面である対話力を駆使する以外に無く、この側面への投資は確かな未来への投資である点を強調しておきたい。日本が世界に理解されない国に成り下がっては、人類全体に迷惑を掛けるのである。

 

終わりに

かつてquality controlは日本のお家芸であった。その頃の日本人はBill Gates“World Domination”(マイクロソフトの社員達に口癖の様に言う「世界制覇」という目標)をも凌駕し、“World domination is just the beginning.”(世界制覇なんてほんの手始め。そこから全てが始まる。)の勢いが有った。国際化を含む大学教育改革が、日本の高等教育をそんなレベルまで押し上げる可能性は有るのだろうか。答えは圧倒的イエス(resounding yes)である。なぜなら、現在日本の抱える問題は自分自身の甘えや意志の弱さ、目的やビジョンの崩壊・欠落・混乱、更には不十分なリーダーシップなどが原因であり、我々に潜在能力が無い訳ではないからである。その潜在能力を顕在化させる十分な力を、日本人は間違い無く備えていると思う。

 

最後に再び僕が学生さんによく言う言葉を披露しよう。「試験で一番になんかならなくて良い。とにかく100点を取れ。」常に完璧を目指すべし。