© 1999 Masato SUZUKI
意
識 革 命鈴木正人
私は断言する。今世紀のキーワードは「国際交流と環境」である。地球環境の危機が叫ばれ、はや10年近くがたとうとしている。その間に日本でも環境ブームが起きたものの、今ではすっかり影を潜めている。そして各国がどれほど努力してきたかがはっきり現れてしまった。
ドイツに代表されるヨーロッパ諸国は環境先進国といわれる。街中における自動車の数を制限した結果である。酸性雨に対しても研究が進められており、枯れてしまった森を元に戻そうと、消石灰の空中散布、植林などの取り組みが行われている。一方、中国、東南アジアにおいては改善の兆しはさほど見えない。外国資本による工場施設の不備が前世紀の大きな原因であった。世界的に注目すべきことではあるが、いかに安く製造するかという問題との対立のため一向に改善は進まないでいる。サミットなどで環境に対する取り決めが行われるものの、結局は自分の利益しか頭にないので、大きな改革はさせられないのが現状である。
「この(環境問題に対する取り組みの)差は
(国に)金があるかどうかだ」と決めつける人がいる。極端なことをいうやつもいるものだと、改めて京大生に驚かされる。少なくとも昔はお金持ちであった日本はどうであったかと考えを向けると、対して変わりないことに気づく。光化学スモッグ、海のヘドロ化、河川の水質汚濁、酸性雨、地盤沈下、大量のゴミ。どれ一つといって軽視できるものではないが、対策がさほど成功していないのも事実である。99年10月に東海村で放射能漏れの事故が発生した。史上3番目の大事故らしい。災害は忘れたころにやってくる。うまく言ったものである。これらは科学技術の問題というよりも人の問題である。マンション暮らしで隣の人と口も聞かない現在の社会で、他人のことを考えて生きることを要求するのは無理な話だからである。日本の社会はもう凝り固まってしまっている。周りから競争競争とけしかけられる某T大学よりも、自由な(悪く言うとほったらかしな)わが京都大学生の有望性は高い。(いくぶん誉めすぎ)
日本人論について述べられた本を読むと、日本人は自己中心的であると書かれていることが多いのがわかる。例えば、環境問題についての関心度はかなりの個人差がある。ダイオキシンを恐れ、声高に学校焼却炉の廃止を訴える人。紙ゴミだけなら安全だと、自宅で燃やす人。世論をまったく無視して、発泡スチロールも燃やしてしまう人。皆思い思いに自分の基準でもって判断し行動する。とくに顕著なのがレジャーのときである。食事で、普段ならもったいないとすべてきれいに平らげる人が、外食すると残してしまう。贅沢な気分によるものである。日本人はとくに気分に影響されやすい。ブームも起こっては、1、2年で消えてしまう。
筆者は中学2年のとき、海外派遣制度を用いてオーストラリアへ行くことができた。この制度の目的は国際交流をし、自分で何か新しいものを発見し学んでくるというものであった。テーマとして「ゴミ問題」を取り上げた。オーストラリアはシンガポールと双璧をなす、ゴミの落ちていない国と日本ではいわれている。実際にメルボルン市を歩き回り、ホームステイして調べてみたが、本当に美しかった。各家庭で出されるゴミの量が日本の家庭の半分ぐらいでしかなかった。街中の工夫としてほとんどの角にゴミ箱が備え付けられていた。土地がない日本では、歩道にゴミ箱を設置したら人が通れなくなってしまうのであり、真似したくても真似できないものである。分別回収もしっかりなされていた。日本でも分別するのをマナーとしようとする試みは行われているが、今だ効果はあまり出ておらず、各地で不燃ゴミ置き場の不足に頭を抱えているのが現状である。昨年の春、名古屋市では埋立地にゴミを埋めようとしていろいろな論議をかもし出していた。今や日本は、ゴミ問題で大きく遅れをとってしまっている。
この差は何かというと、意識の違いである。例えば、日本人は買った物をしっかり包装してもらうのは当然であるという意識がある。ところがオーストラリアにおいては、簡易包装が標準である。日本では失礼に当たることが、当たり前になっているのである。
ある人曰く、「日本の文化は隠しの文化である」。陽気な昼下がりに何を言い出すかと思ったら、続けて「帳や風呂敷を用いていたし、武士は寡黙をもってよしとされていた時代があった」あえて自分を直接表現しないことで、より良く見せようとしていた風習を言おうとしていたらしい。俳句や和歌に代表される「気持ちの歌い込み」が、日本文化の大きな特徴である。これは今でも十分に当てはまる。だぶだぶの靴下の一種であるルーズソックスであっても、足首を隠すことによって他人から足首が細いと思ってもらおうという意識から生まれたものである。
「
Globalな視点からWorld Wideな視点へ」これが、日本で近年キーワードとしてしばしば取り上げられるようになってきた。東京大学名誉教授による講演や、私の属する京都大学工学部地球工学科の授業でも盛んに用いられている。いよいよ国際交流の大切さの再認識が始まったのである。日本人はとくに集団行動をとりやすい。自分と違う考えを聞き、新たな発見をし、自分をより良くしようという積極性があまり見られない。己の殻に閉じこもったままで生きていける時代はもう過ぎ去った。凝り固まった、日本人としての意識を変えなければいけない。そのためには、日本人が一番苦手とする、国際交流をしなくてはならないのである。幸いなことに、交通網やインターネットの発達により国際交流はある程度身近なものになってきた。あとはきっかけがあれば良いのである。京都大学でも国際交流のためのメーリングリストを作り実験的ながら運営している。早く結果が出てもらいたいものである。
21世紀の京大は、もがきながら確実に1歩1歩進んでいる。
Save the Earth.
まず、身近なところからはじめよう。