© 1999 by Masayasu AOTANI
「人生バラエティーに富め」―
京大のゴールデンボーイ青谷助教授マラソン・インタビュー今日本で新感覚の国際派として話題を集めている、京都大学留学生センターの金髪・スケボー助教授青谷正妥(まさやす)さんにお話を伺いました。青谷さんは
1989年より1998年まで10年間Berkeleyに住まれ、現在でもコンドミニアムがBerkeleyに有るなど、Bay Areaが第二の故郷だそうです。日本では大手の各新聞、読売テレビ、毎日テレビ、京都チャンネル、朝日放送ラジオ、写真週刊誌「フライデー」、週刊宝石とマスコミを大いに賑わしている京大のゴールデンボーイがいよいよ本誌にも登場します。その1
「七転び八起き又一転び」Dream
:始めまして。今日は宜しく御願いします。青谷:こちらこそ御世話になります。
Dream
:青谷さんは、人生最初の24年間を日本で過ごされ、次の20年をアメリカで過ごされ、今又日本で京都大学留学生センター助教授として、お仕事をなさっていらっしゃる訳ですが、生い立ちも含めこれまでどういう人生を歩んでこられたのか、読者の皆さんに御紹介下さいませんか。先ず日本での最初の24年から。青谷:はい。私は
1954年、敗戦屈辱の昭和20年代最後に当たる昭和29年に、母親の実家の有ったサンフランシスコの姉妹都市大阪市西成区に生まれました。丁度そのころ砒素ミルク騒動等が有り、私は一年違いとかで危うく難を逃れたそうです。生まれたのは大阪市内でしたが、親父の実家は大阪府下の富田林(とんだばやし)市で、私も富田林市とそのすぐ隣の羽曳野(はびきの)市という所で育ちました。運動神経は普通だったと思うのですが、何をやっても動作がのろく、小学校一年の時授業参観に来た母親が、常にワンテンポ遅れる我が子を見て知恵遅れと確信、その夜泣きながら親父にその話をしたそうです。(笑)又所謂嫡流で長男の長男であった私は、神主をしていた父方の祖父に本当に可愛がられ、全て自分で好きな様にしないと気が済まなかった為、先生を寄せ付けず、「近寄り難い御子さんです」(笑)と一年生の時の学級担任に評されたそうです。Dream
:おじいさんは神主さんだったのですか。青谷:はい。大阪府富田林市宮町(みやちょう)に有る美具久留御魂(みぐくるみたま)神社という所の神主でした。神社ですから山腹に広がる広い境内が有り、長い石段を駆け回ったり、夏になると蝉を取ったりとても楽しかったのを覚えています。本当は神社の境内での殺生はいけないらしいのですが、可愛い孫のやる事というので、一度も叱られた記憶が有りません。それどころか、トリモチを竿に付けたり、いろいろ手伝ってくれました。あとはカブトムシを取ったり、夜は蛍狩りに連れていって貰ったり、大阪の一部とは思えぬ程自然に恵まれた所でした。
Dream
:その後羽曳野市に移られたというのは。青谷:私は子供でしたから知りませんでしたが、大阪府営住宅の抽選に当たったと聞いています。羽曳野市も自然に恵まれた所で、キリギリスを取ったり用水路でドジョウをすくったりしたのが楽しい思い出です。
Dream
:生き物がお好きだったのですか。青谷:昆虫博士と呼ばれ、昆虫・魚・蛙などが大好きでした。今でも京大の研究室で鈴虫を飼ったり毎日構内の池の鯉を見に行ったりしているくらいですからお分かりでしょう。とにかく勉強以外は生き物と野球が生活の中心でした。虫取りや魚取りと野球以外の遊びはやった記憶があまり有りません。
Dream
:失礼ですが、先程のろまだとおっしゃいましたが、野球は出来られたのですね。青谷:はい、野球は特にすごいという訳では有りませんが、人並みに出来ました。足も普通より速かったし。自分でも不思議ですが。(笑)ところで一般的のろまの方は六年生になってもなおらず、実習でやって来た学芸大学の学生さん達が、「あの知恵遅れの子供さんの指導はどうなさっていますか。」とワンテンポ遅れる私について尋ね、思わず担任が吹き出した事が有ったそうです。自分としては、しっかり考えてから行動していただけだったのですが。(笑)
Dream
:成る程、一味違う少年だったというのが良く分かりました。(笑)中学・高校時代はもっとワイルドだったとか。青谷:それが受験勉強が忙しくて、勉強以外大した事は出来ませんでした。今の様に塾や家庭教師が盛んな時代ではないので、学校の勉強だけでしたが、のろまと記憶力の無さが祟って、毎日それこそ血を吐きそうになりながら必死で勉強していました。私が時々「口から血を吐く程やってみろ」と学生さん達にいうのは、この時の経験から出たものです。中学は地元の羽曳野市立誉田(こんだ)中学校でしたが、高校は大阪府立天王寺高等学校で、当時としては典型的な秀才コースでしたが、高校二年生の頃に壁に突き当たり、三年生で敢然と巻き返すも力及ばず、敢え無く浪人してしまいました。
Dream
:血を吐く程の勉強でも駄目だったのですか。さぞがっかりされたでしょう。青谷:それが、受験勉強が忙しくてがっかりする暇も有りませんでした。(笑)大阪の土佐堀という所に有った
YMCAの予備校に通っていましたが、同じ天王寺高校の友達が沢山居た事も有り、皆で励まし合いながら充実した一年を過ごせた事、偉そうに言えば逆境に耐える自信が付いた事等、有意義な浪人生活だったと思います。翌年目出度く京都大学理学部に入学出来たので、そう思うだけかも知れませんが。Dream
:それでは、留学に至るまでの経緯をお話下さい。青谷:理学部には良く勉強する学生さんが沢山居ます。自分で言うのもおかしいですが、私もその一人で今度はストレートで理学部の大学院に合格できました。放射線化学が専攻でしたが、修士一回の折り当時助教授であった現在京都大学名誉教授の志田忠正先生に「アメリカへ行きなさい」とひとこと言われ、もともと留学に興味が有ったので、あっさり行くことに決めました。それだけです。行くなら早い方が良いだろうというので、翌年の秋までは待たず、
1月の冬学期から始める事にしました。1979年1月3日が日本最後の日です。Dream
:青谷さんはアメリカ各地を移動された様ですが、最初は確かMaryland州でしたね。青谷:最初は
Maryland州College Parkに有るUniversity of Marylandで、そこのCyril PonnamperumaというSri Lanka人の教授の率いるLaboratory of Chemical Evolutionという所で生命の起源の研究をしようとしていました。悪い先生ではなかったのですが、基本的には政治家で、金を取って来たりするのは上手くとも、学生指導の時間は無し。しかも必須単位の認定に関して学科長と意見が食い違うなど、どうも問題の多過ぎる院生生活で、結局数年後に見切りを付けてPrincetonに移ってしまいました。本当はBerkeleyに行きたかったのですが、不合格になってしまったので、やや不本意では有りましたが仕方なく。ところで、このPonnamperuma先生については、15年後に学会でMaryland大学を訪ねた折り、本当に久し振りに御挨拶しようと思って行ってみるとラボはもぬけの殻で、その数年前に先生は仕事中に心臓麻痺で亡くなってしまっていたという残念な後日談が有ります。その事を僕に伝えてくれたのが、Princetonの院での先輩で、Marylandで助教授をなさっていたHerndonさんだったと言うのも何かの因縁だったのでしょうか。Dream
:先生が亡くなったのを全く御存じなかったのですか。青谷:はい。専攻分野が変ったものですから、その種の情報にはすっかり疎くなっていました。
Dream
:では、Princetonでは何を学ばれたのでしょう。青谷:
PrincetonではPhysics and Chemical Physicsという学際的な専攻で、化学の知識はもう充分に有ったので主に物理のクラスを取っていました。私の自慢は、後に物理学者でありながら数学のノーベル賞と言われるFields Medalを取った、Edward Wittenの量子力学と一般相対論を受けた事です。Princetonの町その物は、大阪育ちの私には田舎過ぎたものの、学問的レベルの高さには大いに満足していました。Dream
:しかしPrincetonで学位は取られなかった。青谷:せっかく気に入っていた
Princetonだったのですが、二年目が終わろうとするところで個人的理由からどうしても金が必要になり、一旦退学して働かざるを得なくなりました。こちらは決死の思いでやめるのに、指導教官や同じ研究室の人間に“I thought you were serious about finishing this time.”等と言われ、まだ若かった自分は非常に悔しく思ったのを覚えています。Marylandに続いてPrincetonもやめたから、その様に見えても仕方が無いという冷静な状況解析は、とても20代後半の自分には無理でした。Visaはまだ学生visaのF1でしたが、幸い某日系企業に拾われ、正式名は無かったものの「New York Office開設準備室」の様な感じの仕事を貰いました。理学部出身で学者にしかなる気の無かった人が、急に広報・宣伝等も担当するのですから、我ながら前途多難と思いきや、持ち前の多角的アプローチに基づいた行動力が大いに役立ち、簡単に仕事に慣れる事が出来ました。尤も、当時Los Angelesに居た私の形式上の上司は、二三度会っただけで「君なら出来る。心配無用」と断言しており、やはり偉い人は部下が自分でも気が付かない様な特性を直ぐに見抜くものなのだと、本当に感心しました。Dream
:それでは、順風満帆という事で。青谷:仕事上は一応そうでしたが、
30も過ぎていましたし、兎に角早く大学院に戻って学位を取らなければという焦りはかなり有りました。その頃Manhattanで、元Columbiaの院生で、やはり家庭の事情か何かで一旦退学して働いていた人に出会い、自分は酒が全く飲めないので彼の横で子供の様にオレンジジュースをお代わりしながら、互いに身の上話をしてはグチをこぼし合っていたのを良く覚えています。後は、自分に甲斐性が無いので女が逃げたとかいう月並みな話も有りますが、こちらの方は、自分で逃げられて当然と完全に納得しました。金が必要なら仕方が無いとはいえ、自分としては時間の無駄そして人生の無駄という意識がやはり強く、強靭な精神力が無ければ参っていたかも知れません。このままこの平凡なサラリーマン生活に埋没してはいけないと、何時もそればかり考えていました。Dream
:かなり深刻だった訳ですね。無駄と思いながら、それでも実績は上げられていたというのには、本当に感心してしまいます。青谷:サラリーマンは大体そうなのでは。(笑)尤も、この仕事の御陰で永住権も取ったし、又広報の経験は今京大で非常に役立っています。人間いつ何が役立つか分からぬものでしてね。
Dream
:で、そのサラリーマン生活と訣別されたきっかけは何だったのですか。青谷:きっかけというよりは、金の必要が無くなり、やっていたプロジェクト等が一段落したのを機に、上司の計らいで極自然に又学生に戻って行きました。その頃には、準備室ではなく、本物の
New York Officeが出来ていましたが、とても理解の有る上司に恵まれたので、「青谷さんが大学に戻りたいと考えているのは知っています。僕も応援しますよ。こんなに一生懸命働いてくれたのだから。」更に、「少しずつpart timeでクラスを取ったらどうですか。昼のクラスなら、back up出来る人も沢山いるから」と夢の様なお言葉。勿論、本当によく働き、実績も上げてはいましたが、ここまで優しくされるとはと、半信半疑でした。余談になりますが、nice guyは出世しないという世間の相場に反して、その人はその後間もなく日本の本社に栄転されました。Dream
:そうしてNew York市立大学に入られたのですね。かなり色々な大学に通われた様ですが、日本に居たら考えにくい事だったのではないでしょうか。青谷:そうですね、後程お話しますが、この後も二校程レパートリーに加わり、結局京大も含めると合計五つの大学院に在学した事になります。尤も
degreeは二つしか有りませんが。Dream
:二つっきりですか。(笑)青谷:そうなんです。五つの大学院と聞いた途端に皆さん大いに期待されるので、なかなか大変です。
Dream
:三つぐらいは博士号を持っているだろうとか。(笑)青谷:がっかりした顔を見るのが不本意で。(笑)
Dream
:で、その二つの内の一つがNew York市立大学の修士号なのですね。青谷:はい。
Part timeでクラスを取り続けている内にどんどん単位が溜まって。ある日突然数学のChairmanの所に呼びつけられ、「俺は何もしてないぞ」とは思ったものの、少しびくびくしながら出かけて行くと、彼がにこにこしながら「Mr. AOTANI、こんなに単位が溜まって、修士号ぐらい取ったらどうですか。」その時点では、物理関係の単位が18、数学は14程でしたが、彼がChairmanの権限で“special consideration”をしてくれて、何故か数学の修士号になってしまいました。外国語の試験が必要だったのですが、ドイツ語の試験官は自分を一番可愛がって下さっていた70歳くらいの先生で、試験の途中でいきなり入って来られて、「You have done enough.」とあっさり合格してしまいました。後から聞いてみると、出した修士号の数が各学科の業績になるので、物理学科は数学科に手柄を取られたというのが実情だった様です。その後、New York市立大学の物理学科は財政措置で冷や飯を食わされる結果に成り、当事者達にとっては笑い事では無かったでしょうが、自分は「俺が物理の修士号を取ってやらなかったからだ」と変な自慢にしています。(笑)Dream
:もう一つの学位はカリフォルニア大学バークレー校の数学の博士号だそうですが、今度はいよいよバークレーに移られてからのお話をして下さい。青谷:
New York市立大学で修士号を取ったのと前後してfull timeの仕事は辞め、化学者としての一度目の挑戦では退けられたBerkeleyに数学者として再挑戦。今度は運良く入学を許可されました。それまでEast Coastばかりで、憧れのWest Coastに住めるのは感激でした。住む場所がなかなか見つからないと聞いていたので、態々5月に部屋探しにやって来て万全を尽くし、一旦New Yorkに戻った後、6月から正式にBerkeleyの住人になりました。1989年の事で、Berkeleyにはまだ厳しいrent controlが有り、平均サイズのliving roomに六畳くらいのfull kitchenのついたstudioを月246ドルで借りる事が出来ました。勿論、自分がBerkeleyに住んだ10年間に、rentはどんどん上がりましたが、1998年でも一月400ドル程度でしたから、ことrentに関しては、大変運が良かったと言えるでしょう。住みついて間もなく例のLoma Prieta大地震が有ったのが今でも印象に残っています。Dream
:地震以外は順調な院生生活だったのでしょうか。青谷:それが一番最初の試験に躓いてしまって。(笑)新学期の二週間目くらいに
preliminary examinationといって学部レベルでの数学の基礎がしっかり出来ているかどうか調べる試験が有りましたが、元々学部の数学を殆ど取っておらず、修士号も数学より物理の色彩の濃いものであったので、学部の易しい筈の数学が自分にはとても難しく、夏中勉強したのに通りませんでした。尤も、その試験は例年よりかなり難しく、普通は受験者の半分くらいが通っていたのに、この時だけ何故か合格率は30%、自分は落ちた中で上から二番目だったので、先生方は善戦したと言って下さったのですが、自分は普通の年なら通っていたのにと、じっと手を見るという状況でした。とはいえ、今度はfull timeの院生で、勤めていた頃の焦りに比べれば、こんな事は知れていると、簡単に立ち直る事が出来ました。自分は学生さん達にしょっちゅう「人生にはもっと難しい事や、もっとつらい事が幾らでも有る」と言いますが、そういう考えで乗り切りました。Dream
:アメリカで20年も苦労した人にそう言われると、学生さん達もすぐに納得されるのではないでしょうか。青谷:その様です。はたちそこそこの人達には、自分の様に
45歳にもなった人間の言う事はかなりの重みを持つ様です。その割には「こんな汚いオフィスで毎日なにしてんのよー」とコギャル口調丸出しの一回生も多く研究室にやって来ますが。(笑)人生バラエティーに富めと思って寛大な措置を心掛けています。(笑)Dream
:Preliminary examinationの後は順調だったのでしょう?青谷:そう思いますか?(笑)
Dream
:えーっ、まだ何か有ったのですか?青谷:
Preliminary examinationは滑る人が非常に多いので大した事も無かったのですが、もう一度今度は通る人の方が圧倒的に多い試験に失敗しています。俗にqualifierと呼ばれている物で、学校によってはcandidacy examinationと呼ばれる事も有り、これに受かると晴れて博士論文提出の権利が得られるという物です。勿論、実際の論文は数年に亘る研究の後にしか書けないのが普通ですが。これが実は口頭試問で、自分の最も苦手とする物でした。小学校以来基本的に思考がのろいので、筆記試験はまだ良いのですが、打てば響かないといけない口頭試問は苦手です。Marylandでも一度失敗しそうになっており、しっかり準備したつもりだったのに、しくじってしまいました。普段の成績は良かったので、再試験を許され、事無きを得ましたが、これは失敗する人の方が遥かに少ないので、本当に情けなく感じました。友達等でも、可哀相と言うよりは、不甲斐ない奴だと思った人の方がきっと多かったでしょう。ただ、最終的には吉と出たので、上述の人生バラエティーに富めという態度を貫いておきました。年齢も一般学生よりはずっと上でしたし、この頃には、もう大抵の事ではそれ程動じなくなっていました。さすがに試験に滑ったのはこれが最後です。因みに、バークレーの数学科には、博士論文の口頭試問であるoral defenseは有りません。それぞれの先生が、論文を読んで納得すれば論文のcover sheetにサインするという形式で、口頭試問の苦手な自分や多くのアジア系の留学生には、これほど有り難い事は有りませんでした。Dream
:そうですか、大変な苦労が有ったのですね。口頭試問が苦手と言うのはやはり英語の問題でしょうか。青谷:理科系特に数学の場合、そうも言えないと思います。自分は
1979年渡米時にTOEFL620点で英語検定1級でした。10年後にバークレーに要求されて、受験料が高いので嫌々又受けたTOEFLは660点でした。全て口から血を吐く様な努力の賜物ですが、GREのverbalも89%でしたし、理科系としては英語は良く出来た筈です。それよりも、日本人を含めたアジア系の学生は口頭での議論と言う物に慣れていないのが大きな理由ではないかと思います。Dream
:日本の教育も、もっとクラスディスカッションを取り入れろという事ですね。青谷:うーん、それがなかなか難しい所なのですが、少なくとも理科系の人間にとっては、口頭試問以外ではそんな
skillは役に立ちませんから。その辺はどうなのでしょうか。例えばアメリカの数学教育のひどさを考えると、個人的にはむしろクラスディスカッションを犠牲にしてでも、数学教育や理科教育を強化すべきだと思うのですが。まあ教育者一人一人、その人なりの偏見が有るでしょうから。難しい問題ですね。教育のどこに重点を置くかというのは。Dream
:教育と言えば、青谷さんは随分色々な所で教えておられますね。青谷:最初は、典型的なアメリカの教授達が全てそうである様に、
TAから始めました。MarylandでもPrincetonでもやったのはTAだけです。しかしNew York市立大学に通い始めた頃には年季が入っていたので、TAより給料の高いLecturer(講師)にして貰いました。この様にEast Coastに居た頃から教えてはいましたが、本当に経験を積んだのはBay Areaに来てからです。カリフォルニアにはコミュニティーカレッジが非常に多く、特にBay Areaには私立大学等も集中しているので、マーケットとしては売手市場です。とりわけ数学では、大学関係のフルタイムの職が激減しており、研究だけでなくティーチングの経験も充分に積んでいないと、就職活動の折りに大変不利ですから、地の利を最大限に活用して出来るだけ色々な大学で、出来るだけ色々な科目を受け持つ様に努めました。結局アメリカでは4つの短期大学と11の4年制大学で教える機会に恵まれ、化学・物理学・天文学・生物学・数学・統計学・経営学・日本語・エンジニアリング・コンピューターと様々な講義を受け持ちました。化学に始まって、物理へ、更に数学へと渡り歩いた事が役に立ったのは本当に幸運でした。Dream
:そんなに色々教えられたのですか。教えた学校と言い、科目の種類と言い、ちょっと常識では考えられない様な取り合わせですが、学生さんにも大変人気が高かったのでしょうね。青谷:それが最初は最悪でした。先程言いました様に、
Bay Areaは売手市場である為に、仕事は次々と見付かりましたが、勉強をしない生徒や受講態度の悪い生徒がどうしても我慢出来ず、年甲斐もなく恥ずかしい事ですが、怒鳴りつけたりした為に、生徒の評判は芳しく有りませんでした。講義も準備はちゃんとするのですが、話が下手だったのか生徒の評価は高くありませんでした。Golden Gate University、University of San Francisco、Vista College等ではDeanに呼び付けられ、特にUniversity of San FranciscoとVista Collegeでは学期の途中で降ろされると言う醜態でした。自分は今でもprerequisiteも無いのにクラスをとった学生や、大学生にもなって対数が分からなかった学生が悪いと信じていますが、非常勤で行っていた為、電話一本、email一つで簡単に切られてしまいました。非常勤の手当ても生活費の一部であったので、直ちに困りましたが、どうしようも有りませんでした。今になってみると、Dean達も実状は知っていたが、そうでもしなければ生徒や親達が納得しなかったのだろうと、かなり客観的に考えられますが。その当時は烈火の如く腹を立てたものでした。日本ほど学生の粒が揃ってはいないというのは、充分承知していたのですが。それでもアメリカ滞在の最後の方では、充分な適応が出来、我ながら教官としてまあまあだったと思います。学生さん達の評価も、一応それを裏付ける物でした。平均的なアメリカ人の数学力は、日本人のそれに比べて驚異的に低いですから、数学関係の人間は皆相当のculture shockを経験する筈です。Dream
:日本で文科系だった人が、アメリカでは数学が一番になったとか、確かにそういう話はよく聞きますね。今のは苦労話でしたが、逆に教えていて楽しかった事など如何でしょうか。青谷:数学専門の癖に、数学を教えるのは嫌いでしたが、日本語は楽しく教える事が出来ました。
Berkeleyでは、夏に三年生の日本語を教えましたが、既にキャンパスで見慣れていたせいも有ったのでしょうか、学生さんがとてもなついてくれ、初めて優しい先生だという評価を受けました。又MITでは、夏の科学技術日本語を教えさせて頂き、涼しいBerkeleyを離れて真夏のNew Englandに行くのは少しつらかったですが、大変良い経験となりました。科学技術日本語なのに、自分以外には理科系の人間が殆ど居らず、学生さん達に大いに頼りにされました。優秀な人達が世界中から集まってきていたので、一緒に日本語の論文を読んでいて、こちらが教えられる事も多々有りました。その内何名かは今日本に住んでおり、時々旧交を温める機会などが有り、日本語が上手になっているのに驚きながら、御付き合いを続けさせて頂いています。Dream
:これは意外な事を伺いました。数学の研究は兎も角、教える方はお嫌いだったのですか。数学者が日本語を楽しんで教えられたというのも、とてもユニークな現象なのでは?青谷:自分の場合、先程申しました様に祖父が神主であり、親父が国語の教員であったので、古文・漢文も含め、小さい頃から色々な日本語に接する機会が多く、高校でも国語は好きな科目でした。実際模擬テスト等でも、偏差値だけだと国語が一番良かった事もよく有りましたから、今の様に偏差値偏重の時代なら、文学部に行く様に指導されていたかも知れません。
Dream
:好きこそ物の上手なれですね。その言語センスで英語も出来られたのでしょうか。青谷:でも国語は好きでも、英語は嫌いでした。自分が英語が出来るかどうかは別として、どちらかと言うと、役に立つので嫌々勉強したという感じです。でもやり始めるとしつこくやり続ける人だから。(笑)色々な事を次々手懸ける一面も勿論有りますが、大事だと思ったらかなり本気になる方でして、例えば日本語教育に付いては、一時その道で修士号くらいは取っておこうと思って
San Francisco Stateの院に入っていました。残念ながら、本職が忙しくなり、これは一学期で止めてしまいましたが。自分の様な門外漢を受け入れて下さった先生方に、今でも深く感謝しております。色々な人達とお知り合いになれ、それだけでも充分価値が有りました。又アメリカに戻ったら、勉強を是非続けたいと切望しております。Dream
:そうすると、San Francisco Stateが五つ目で最後の大学院という訳ですか。青谷:五つ目はその通りですが、最後かどうかはちょっと。(笑)
Dream
:大変失礼しました。(笑)その様に研究・教育に打ち込んでいらっしゃったのに、一時academiaに見切りを付け、また企業に入られましたね。その辺をお伺いしても宜しいでしょうか。青谷:学者失格の理由ですか。(笑)これを話すと長いですよ。(笑)でも簡単に言えば才能の欠如かな、やはり。(笑)真面目な話、自分には例えば
Berkeleyの数学科や京大の理学部の教官になる力は有りませんでした。確かにBerkeleyで教えてはいましたが、それは所謂本雇いではなく、1年契約とか3年契約とかそういった類の物でした。コミュニティーカレッジで散々教えて、力の無い学生を教えるのに疲れ切っていたので、程度の低い大学へ行くよりは、ハイテク産業でエンジニア達の相手でもしようかなと考えました。随分いい加減な理由だと思われるかも知れませんが、真剣に考えた結果です。二十歳代の後半、全く一夜にしてサイエンスから広報・宣伝等に変身できたというのが大きな自信になっており、今度も簡単に新しい環境に馴染めると思ったのです。色々なエージェントにresumeを送り、サンフランシスコの某職業斡旋業者がmatchingをしてくれ、AlamedaのGeoworksという携帯用通信デバイスの会社にtrainerという平凡なタイトルで勤める事になりました。地理的にはSilicon Valleyから少し離れていましたが、典型的なSilicon Valleyタイプの会社で、服装も自由でしたし、自分としては直ぐに馴染んだつもりでした。Programmingの知識はかなり弱かったので、毎日早朝から夜遅くまで頑張り、週末も出勤して再び口から血を吐く程の努力を続けました。努力その物に異議の有る人は居なかった様ですが、プロジェクトが人生で、それ以外は眼中に無いという学者的アプローチは、しばしば意見の食い違いの原因と成り、自分の欲求不満も次第に高まって行きました。黙っていない性格なので、emailで公に上司と衝突するなど、だんだん歯車が狂って来ました。例えば給料に付いてオープンにディスカッションをする等というのは、学者的見地からは全然不自然な事ではないのですが、これが非常識な行為として槍玉にあげられ、この辺りから自分でも向いていないかなと思い始めました。向こうも同じ思いだったと見え、或る日突然人事のボスに呼び出され、その場で解雇を言い渡されてしまいました。“We want you to be happy.”と言われたのは、果たして誠意に溢れた言葉だったのか、それとも窮極の皮肉だったのかは一生分からないでしょう。しかし、お互い大人ですから、プロジェクトチームの面々と握手をして帰って来ました。人事課のボスは家まで車で送ってくれました。働き始めてから僅か3ヵ月しか経っていませんでした。これが自分がアメリカで就いた最後の仕事です。Dream
:正に波瀾万丈だったのですね。困難が有る度にそれを乗り越えてこられた努力と精神力には心底から敬意を表します。それにしても「人生バラエティーに富め」って良い言葉ですね。青谷:自分もこの言葉が好きです。どんな状況にも使えて、正に万能薬ですから。尤も、或る日アメリカ人の友達にその意味を説明しようとして、“
It is nice to have lots of variety in life”とかたどたどしくやりながら、どういう状況の時に使うのか説明していたら、急に目が輝いて「何だそれか。英語では“What a hell!”だよ」とあっさり片付けられて、しょんぼりしてしまいましたが。(笑)こちらの説明が悪かったのでしょうが、そんな投げやりな物では無く、もっと奥深い表現なのに、全く。(笑)まるで小説か何かの主人公の様に、次から次へと人生の様々な側面を体験して来られた青谷さんとお話していると、本当に時間の経つのを忘れてしまいました。失敗してもくじけない革命家の如き精神力と、次々と新しい事を手懸ける学者の好奇心を持ち合わせた方との印象でした。何が有っても「人生バラエティーに富め」とどっしり構える大人のたくましさと、少年の様な柔軟性とフットワークの軽さを兼ね備えた人と言ったら、やはり褒め過ぎでしょうか。次回は京大に勤めるまでの経緯、また留学生センターに付いてお話して頂きます。