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国立大学から国際大学へ

立後れている国立大学の国際化


教育の国際化、又国立大学の国際化が叫ばれて久しい。80年代の中曽根発言に端を発した留学生10万人計画など、実現の可能性如何に拘わらず、聞くだけでも頼もしい限りであり、多くの国立大学では、文部省等の肝いりで、留学生センターなる物が次々に開設され、特別奨学金まで付けての短期留学生受け入れも始められ、留学生用の英語の講義を用意する所も増えた。この様な動きは国際交流の流れの双方向性を保つという意味で非常に好ましいが、国立大学の真なる国際化への道は未だに遠い。

先ず第一に、これまでのところ日本における国立大学の国際化は主に政府の方針として大学に外部から押し付けられた物であり、大学の内部から自発的に出たものではない。従って、学生・教官・事務官を問わず、国際化の意義や必要性がしっかりと掴めていない場合が多い。トップダウンの管理主義的国際化には限界が有る。

次にどうしても避けて通れないのが言語の問題。英語が世界標準に成った今、英語力が無ければ、国際化の第一歩すら踏み出せない。然るに、日本人の英語力は大学教官も含め、限りなくゼロに近い。そして最後に制度上・事務手続き上・事務処理能力上の問題がある。日本への留学手続きの煩雑さと、膨大な提出書類の量は世界の留学担当者たちの間で有名である。本稿では、これら諸問題の解決策と、大学の国際化の向かうべき方向について論ずる。

政府の方針により、又ただ単に予算が付くというだけの理由で、留学生センターを開設し、留学生用のプログラムを作り、交換留学を始めるという安易な態度を許して来たのが、これまでの日本であったが、これでは大学側の自発的国際化が期待出来る筈がない。昨年十月の大学審議会の「21世紀の大学像と今後の改革方策について」と題する答申のサブタイトルが「競争的環境の中で個性が輝く大学」というものであった。ここでの競争や個性は学生のそれを指したものであろうが、これをこのまま大学にも当て嵌めてはどうか。即ち、学内よりのイニシアティブにより、その大学独自のプロジェクトをやり抜く力と人材が有ると証明出来る大学にのみ、それなりの財政援助をするのである。こと国際化に関しては、これまでの日本は持てるものと持たざるものの差を付けなさすぎた。又国の顔である東大や京大には必ず金が付くという様なやり方は笑止千万である。下克上の世界にこそ、日本の大学教育活性化の道が有る。

競争力と個性を出そうとすれば、自ずとその様な人材が必要になり、例えば英語力に長けた外国籍を持つ者の採用を奨励する必要も出て来よう。そうなれば、外国人にだけ任期制が有るという、今の不合理な制度改善への圧力も期待できる。教官の英語力向上更に事務官の英語力向上の特効薬としては、今のところ外国人の採用以外の手は考えられない。教官の英語力が確保されて、初めて学生の英語教育が可能に成る。国際化のインフラとしての実用英語教育が、90分でシェークスピアを10行精読するという非実用英語教育に取って代わらねばならない。ここでいう実用英語教育は必ずしも外国語としての英語の講義に止まらない。例えば一般物理の講義を英語で受けるという様な、それぞれの専攻分野の学習・研究を英語で行う事を通じての習得が、最も効果の上がる方法と思われる。その為には語学講師でない外国人教官の採用が必要となり、それが又国際化に拍車をかけるという相乗効果が期待出来る。

最も厄介なのが制度上又事務手続き上の問題。書類の準備も含め、日本の学生ビザを取る事自体が大変であるが、留学しても多くは特別聴講生等と呼ばれ、学割等、一般学生と差別される日本の制度は如何にも非国際的である。何十年も前の法律が未だに生きていると言われる日本。行政改革の一環として、留学生受け入れ手続きの簡略化と正規生としての取り扱いを是非とも考慮して頂きたい。留学生も自国の学生も身分はただの「学生」という国際化先進国米国のモデルを取り入れない限り、真に双方向的な国際交流は果たし得ない。

次に事務職員であるが、私立大学の場合,自校の卒業生を事務職員として採用するケースが極めて多い。しかし国立大学の場合例えば東大・京大の卒業者が東大・京大に勤めたりはしない。よって教官とは波長が合わない事が殆どである。又留学生課等国際交流関係の職員は、高度な専門職であるにも拘わらず、国立大学の場合、必ずしも長期間そこにとどまるわけにはいかず、通常3年程度の周期で他部署に配置転換されてしまう。ジェネラリストの養成を目指すという名目だが、かなりの数のスペシャリストの必要な留学生課には、このやり方はそぐわない。事務職においても「競争的環境の中で個性が輝く大学」を目指してはどうか。少なくとも優れた語学力を持ち、他部局では考えられない様な国際的問題に迅速且つ正確に対処できる最低限の事務処理能力を備えた人材は必要であろう。普通にやっていれば首にならぬというだけが魅力で事務官になったような人間は、当然最初から失格である。国民もその様な不適当な人事による国税の無駄遣いを認めるべきではない。

大学審議会の「競争的環境の中で個性が輝く大学」という謳い文句を、国立大学の国際大学化への馬標と考えたい。