© 1999 by Masayasu AOTANI
「幸運の青い谷」―
京大留学生センター青谷助教授インタビュー今日本で新感覚の国際派と言えばこの人、京都大学留学生センターの金髪・スケボー助教授青谷正妥(まさやす)さんです。青谷さんは、
20年間アメリカ、特に1989年より1998年まではBerkeleyに住まれ、現在でもコンドミニアムがBerkeleyに有るなど、Bay Areaが第二の故郷だそうです。日本では大手の各新聞、テレビ、ラジオ、週刊誌とマスコミを大いに賑わしている京大のゴールデンボーイがいよいよ本誌にも登場します。びーむ:今日は宜しく御願いします。
青谷:こちらこそ御世話になります。
びーむ:青谷さんは、日本のマスコミに大変人気がおありのようですが、まず現在のお仕事について、びーむの読者の皆さんにご紹介くださいませんか。
青谷:はい、現在は専門の数学の研究と講義に加え、留学生センターという所で、海外からの交換留学生の世話と留学希望の京大生の援助をしています。自分の担当は、京都大学国際教育プログラム(
Kyoto University International Education Program = KUINEP:如何にも日本らしく「クイネップ」と発音)ですが、これは海外の交換交流協定校より受け入れた20名強の留学生に英語で講義をするもので、University of Californiaからも毎年3名程来ています。びーむ:講義は英語でなさるのですか。
青谷:日本語力を全く要求しないプログラムなので、講義は全て英語です。日本に留学生が少ない最大の理由の一つは日本語の特殊性であるとの考えから、例えば欧米の様に非漢字圏の国々等、日本語を苦手とする言語圏の学生さん達にも来て貰おうというのが、元々の設立趣旨なのです。但し、このプログラムは京大の国際化という役割をも担っている為、講義は全学共通科目の一部として、一般日本人学生も取れる様になっています。
びーむ:留学希望の京大生の世話も担当なさっている様ですが。
青谷:学生交換の協定校に京大生を送り出す派遣留学という制度が有り、その為の
advisingをやっています。自分が京大生であった20年前より少しは改善されたとはいえ、日本人学生の外国や留学に関する知識の貧しさは相変わらずであり、折角20年もアメリカに住んだのですから、その経験を少しでも学生さんの役に立てたいと思っています。具体的には、大学の選び方を含めた留学手続きの進め方、海外での学生生活等に関する相談が殆どです。英語圏への留学希望者からTOEFLの為の勉強の仕方の相談もよく有りますが、こればかりは本人がゆっくり時間をかけてやるしか無いと突き放しています。理科系の自分でも出来たのですから、要はやる気の問題だと思います。びーむ:そのお仕事をなぜこれだけマスコミが注目するようになったのですか。
青谷:「マスコミが注目する様にした」と言う方が正確でしょう。本当に仕事その物に注目しているのかどうかは別として。(笑)少し前から日本では国際化という言葉が大流行しています。この波は国立大学にも押し寄せ、例えば定員削減の嵐が吹き荒れている中で、留学生センターでは教官の数が増えるなど、「国際」という言葉は行政的には「ホット」な言葉、巷では「クール」な言葉として持て囃されています。そういう意味で東大や京大の留学生センターは学園の国際化の
symbol的存在の筈です。しかしながら大学に時計台が有る様に、留学生センターにも何か目立つ物が無ければなかなか真のsymbolにもなり難いし、マスコミにものりにくいのです。そこで企業での広報の経験を生かして、マスコミが取り上げてくれそうな話題を提供する事にしました。先ずBerkeley時代から時々やっていた茶髪。ただ茶色っぽいだけなら掃いて捨てる程居ますから、思い切って金髪にしました。一二度やった事が有ったので、どのくらい漂白すれば良いかはよく分かっていました。次に前からの趣味だったスケートボード。年を取って来たのでインラインスケートに変え様かと思っていたのですが、中学・高校生のイメージが強く、若々しい感じと言うよりは少年の匂いすらするスケボーの方が、自分でも嬉しいし、メディアにも受けるだろうという事で、スケートボードを売り物にする事にしました。尤も、マスコミが見つけてくれるのをじっと待っているのも大変ですから、KUINEPの新入生のオリエンテーションの折りに「京都大学助教授すけぼーのヤス」をデビューさせる事にしました。当日は応援団も呼び、交換留学生への日本の大学文化紹介という形でマスコミに広くアピールしました。宣伝は昔取った杵柄で、日本のシステムが分からないという意味では手探り状態であったものの、手応えは有りました。びーむ:そう言えばびーむ編集部にも
Faxを下さいましたね。日本でもFax攻勢だったのですか。青谷:最初は電話攻勢でした。アメリカでもそうでしたが、直接訪問とまでは行かなくとも、少なくとも電話等で先ず自己紹介とイベントの内容を説明してから、
Faxを送る様にしないと無視される可能性も大きくなると思います。びーむ:成る程、経験が物を言った訳ですね。その割には内は
Faxしかなかったのですが。(笑)青谷:それにしても(と話をそらせながら)当時は京大に記者クラブが有るという事すら知らず、全くの素人的アプローチでした。しかし、狙い通りの意外性が受けたのか、新聞社数社とローカルテレビ局が
1局取材に来てくれました。その時に実際に金髪を見た読売新聞の記者が、一週間後に今度は大きな写真入りで青谷を紹介する記事を書き、そのあと軽いマスコミ攻勢が続きました。気が付いたら、新聞・テレビ・ラジオ・雑誌と一通りカバーしており、今では、少なくとも京都では非常によく知られた存在と言って良いと思います。びーむ:次は全国制覇ですか。(笑)
青谷:個人的な認知度という意味で、今目標としている事は二つ有ります。ひとつは太平洋を挟んだ二つの故郷の大阪と
Bay Areaでもっと知られる事、そしてもうひとつは英語メディアで報道される事です。大阪生まれ育ちであり、京都は大阪のすぐ隣に有るのに、何故か大阪での認知度は京都の半分も無く、自分としてはこれが残念でなりません。Bay Areaについては、既に何度か報じられており、びーむさんの助けも得て、これから益々広く自分の顔を知ってもらおうと意気込んでいるところです。びーむ:未だ英語メディアで報道された事は無いのですか。
青谷:日本の
Daily Yomiuriが本家の読売新聞の記事を要約翻訳した物を出した事は有ります。唯一のカラー写真で、そういう意味では大いに良かったのですが、単発ではその意義も半減してしまいます。京大と海外の大学、又日本と外国の架け橋的な役割を果たすのが今の自分の任務ですから、英語で紹介してもらう事が非常に大切です。そのうちUC Berkeleyの学校新聞であるDaily Californianにでも取材依頼をかけようかなどと考えているところです。まあ一夜にして有名にはなれないでしょうが、そのうちSan Francisco Chronicleくらいに出たいと考えています。話は変りますが、マスコミに紹介された御陰で、色々な学生さん達が親しく話し掛けて下さる様になったのは、大変な収穫でした。彼等に国際教育プログラムや派遣留学について、話すきっかけが出来るからです。また、学生さんや近所のコギャルたちに沢山あだ名を付けてもらったのも、とても嬉しく思っています。びーむ:コギャルにあだ名を付けられたのですか。是非詳細を教えて下さい。
青谷:青谷の異文化間コミュニケーション活動の一環としての、援助交際の賜物だという噂は、とても面白くて良いのですが、一応否定しておきます。(笑)
びーむ:なんだ、つまらない。(笑)
青谷:そんな風に見えますか、やっぱり。(笑)コギャル達に付けられたのは二つ有り、ひとつは「
M.S.Revolution」、もうひとつは「幸運の青い谷」です。M.S.Revolutionは勿論女子高生達に人気の有るT.M.Revolutionをもじった物で、「Masayasu starts a revolution.」の意味です。因みに、T.M.Revolutionのター坊をもじった「ターボ=turbo」というファンクラブに対抗して、M.S.Revolutionには「タボー=多忙」というファンクラブが有る事になっています。(笑)びーむ:女子高生の想像力と創造力ってすごいですね。
青谷:はい。「幸運の青い谷」に至っては詩的ですらあると思いませんか。(笑)これは京大の青谷先生がスケボーに乗っているところを見ると、幸運が舞い込むという単純な意味で、早朝や深夜にスケボーに乗る事が多い為に、滅多に実物は見られないというところから出た物だそうです。個人的には、その響きがとても気に入っています。
びーむ:でもあだ名なら京大生も負けてはいない。
青谷:どうでしょうかね。(笑)どうもクリエイティビティという点ではコギャル達に軍配を上げたい気がしますが。又援助交際の嫌疑がかかると困るので、ここは赤勝て白勝てという事で。(笑)京大生が付けたのは「すけぼーのヤス」、「京大のゴールデンボーイ」、「朱雀大路のデニス・ロドマン」、「
Jimmy」等です。びーむ:コギャルの勝ち。(笑)後は大体分かるのですが、「
Jimmy」というのは何処から出た物ですか。青谷:「地味」の音訳だそうです。(笑)その昔どこかの高校に「
Carney」とかいうあだ名の先生が居て、それは彼が「蟹」に似ていたからだそうですが、「Jimmy」も似たり寄ったりです。でもまあ色々あだ名が有った方がメディアは喜ぶでしょうから。自分も楽しいですし。びーむ:青谷さんは、人生最初の
24年間を日本で過ごされ、次の20年をアメリカで過ごされたそうですね。「新感覚の国際派」になられる素がその44年間にいっぱいつまっていることと想像しますが、小さいときはどんなお子さんだったのでしょう?青谷:生まれたのは
1954年、大阪市の西成区で、大阪府下の富田林(とんだばやし)市とそのすぐ隣の羽曳野(はびきの)市という所で育ちました。小学校一年の授業参観で、常にワンテンポ遅れるのを見た母親が知恵遅れと確信、その夜泣きながら親父に報告したそうです。(笑)又、神主であった父方の祖父に甘やかされ、全て自分流にしないと気が済まなかった為、先生を寄せ付けず、「近寄り難い御子さんです」(笑)と一年生の時の担任が言ったと聞いています。尤も本人は、学校に行くのは面倒くさいとは思いながらも、毎日元気に登校し、普通の男の子がやる遊びを普通にやっていました。特に虫や魚や蛙を取ったり、野球をしたりするのが日課でした。野球は9人集まらないので今は出来ませんが、研究室で鈴虫を飼ったり、構内の池の鯉を毎日見に行ったり、今でも生き物は大好きで、40代という少年時代をそういう形で楽しんでいます。ところで、ワンテンポ遅れる癖は六年生になってもなおらず、実習でやって来た学芸大学の学生さん達が、「あの知恵遅れの子供さんの指導はどうなさっていますか」と尋ねるというエピソードが有ったそうです。(笑)びーむ:小学生でその異色振りだと、中学・高校時代はもっと活躍されたのでしょうね。
青谷:残念ながら、勉強以外大した事はやっていません。塾や家庭教師は無く、学校の勉強だけでしたが、のろまと記憶力の無さが祟って、毎日必死で勉強していました。高校は大阪府立天王寺高等学校で、当時としては典型的な秀才コースでしたが、猛勉強の甲斐なく、敢え無く浪人してしまいました。大阪市内の土佐堀に有った
YMCA予備校に通っていましたが、同じ高校の友達が沢山居た事も有り、皆で励まし合いながら充実した一年を過ごせた事、偉そうに言えば逆境に耐える自信が付いた事等、有意義な浪人生活だったと思います。翌年目出度く京都大学理学部に入学出来たので、そう思うだけかも知れませんが。びーむ:京都大学の理学部にアメリカ留学を決意させる何かが有ったのでしょうか。今度は留学に至る経緯等御話下さい。
青谷:経緯という程の物は有りません。修士一回の折り指導教官の一人が「アメリカへ行きなさい」とひとこと。もともと興味が有ったので、すぐに行くことに決めました。要するに、ただ単に行ってみたいと思っただけです。結局理学部の大学院には
9か月間在学しただけでした。何時もゆっくり考えてから行動する性格であったのですが、この辺りからとにかくやってみるという姿勢が、かなり強くなって来ました。色々やってみるというのが京大の学風のひとつですから、それが京大で学んだ最大の事だったのかも知れません。びーむ:アメリカ各地に移り住まれた様ですが、
Maryland州が振り出しでしたね。青谷:最初は
Maryland州College Parkに有るUniversity of Marylandで、そこのCyril PonnamperumaというSri Lanka人の教授の率いるLaboratory of Chemical Evolutionで生命の起源の研究をしていました。しかし3年後に、レベルの低さに嫌気がさしてPrincetonに転学しました。本当はBerkeleyに行きたかったのですが、不合格になってしまったので、仕方なく。序でに生命の起源の研究からもすっかり足を洗いました。びーむ:
Princetonでは何を専攻なさったのですか。青谷:
PrincetonではPhysics and Chemical Physicsという専攻でした。化学の知識はもう充分だったので主に物理を学び、後に数学のノーベル賞と言われるFields Medalを取った、Edward Wittenの量子力学と一般相対論を受けられたのは幸いでした。せっかく気に入っていたPrincetonだったのですが、二年目の途中で一旦退学して働かざるを得ない事情が生じ、某日系企業の「New York Office開設準備室」の様な仕事に就きました。理学部出身で学問以外は出来ないと思っていたのに、広報・宣伝等の仕事にも簡単に慣れる事が出来、隠れた才能に自分で感心しました。びーむ:サラリーマンとしての生活も満更ではないと。
青谷:仕事は一応旨くいっていましたが、
30も過ぎ、兎に角早く学位を取らねばという焦りは相当な物でした。又、丁度その頃、自分に甲斐性が無いので女が逃げたという話も、人並みに有りました。逃げられて当然と完全に納得しましたが。そんな事より、このまま平凡なサラリーマンで終わりたくはないと、そればかり考えていました。尤も、この仕事の御陰で永住権も取ったし、又広報の経験は今大いに役立っています。人間何時何が役立つか本当に分かりません。幸い、New York Officeが出来る頃には、金の必要も無くなっており、それを機に、待望の大学院再入学を果たしました。びーむ:そうして
New York市立大学に入られたのですね。かなり色々な大学に通われた様ですが、日本に居たら考えにくい事だったのではないでしょうか。青谷:そうですね、後程お話しますが、この後も二校程レパートリーに加わり、結局京大も含めると合計五つの大学院に在学した事になります。尤も
degreeは二つしか有りませんが。びーむ:二つっきりですか。(笑)
青谷:そうなんです。五つの大学院と聞いた途端に皆さん大いに期待される様です。
びーむ:三つぐらいは博士号を持っているだろうとか。(笑)
青谷:がっかりした顔を見るのが不本意で。(笑)
びーむ:で、その二つの内の一つが
New York市立大学の修士号なのですね。青谷:はい。数学よりは物理の単位の方が多かったのですが、数学科の
Chairmanの権限で“special consideration”をしてくれて、何故か数学の修士号になってしまいました。出した修士号の数が業績になるので、物理学科は数学科に手柄を取られたというのが実情だったと後で知りました。びーむ:もう一つの学位はカリフォルニア大学バークレー校の数学の博士号だそうですが、今度はいよいよバークレーに移られてからのお話をして下さい。
青谷:修士号を取った後、化学者としての一度目の挑戦では退けられた
Berkeleyに数学者として再挑戦。今度は運良く入学を許可されました。憧れのWest Coastに住みついて間もなく、例のLoma Prieta大地震が有ったのが今でも印象に残っています。びーむ:地震以外は順調な院生生活だったのでしょうか。
青谷:それが一番最初の試験に躓いてしまって。(笑)新学期の二週間目くらいに
preliminary examinationといって学部レベルの数学の基礎を調べる試験が有りましたが、自分にはとても難しく、通りませんでした。夏中勉強したのにと、とても口惜しかったのですが、今度はfull timeの院生で、勤めていた頃の焦りに比べれば、こんな事は知れていると、簡単に立ち直る事が出来ました。自分は学生さん達によく「人生にはもっと難しい事や、もっとつらい事が幾らでも有る」と言いますが、そういう考えで乗り切りました。びーむ:異国で
20年も苦労した人にそう言われると、学生さん達もすぐに納得されるのではないでしょうか。青谷:その様です。はたちそこそこの人達には、自分の様に
45歳にもなった人間の言う事はかなりの重みを持つ様です。その割には「こんな汚いオフィスで毎日なにしてんのよー」とコギャル口調丸出しの一回生も多く研究室にやって来ますが。(笑)悪いのは高校教育で、彼女たちではない。と考えようとは思うのですが。(笑)びーむ:
Preliminary examinationの後は順調だったのでしょう?青谷:そう思いますか?(笑)
びーむ:えーっ、まだ何か有ったのですか?
青谷:もう一度、
qualifierと呼ばれる試験に失敗しています。これに受かると晴れて博士論文提出の権利が得られるという物ですが、実は口頭試問で、自分の最も苦手とする物でした。普段の成績は良かったので、再試験を許されましたが、失敗する人の方が遥かに少ないので、本当に不甲斐なく感じました。試験に滑ったのはこれが最後です。博士論文は簡単に受理されました。びーむ:(パチパチ)そうですか、勉学の面でも大変な苦労が有ったのですね。
青谷:しかしアメリカの大学院は正に世界一であり、そういう教育を受けられた事は本当に幸せであったと感じます。
びーむ:教育と言えば、青谷さんは随分色々な所で教えられた様ですね。
青谷:
MarylandとPrincetonではTAでしたが、New York市立大学では、Lecturerに昇進しました。しかし、本当に経験を積んだのはBay Areaに来てからで、出来るだけ色々な大学で、出来るだけ色々な科目を受け持つ様に努めた結果、4つの短期大学と11の4年制大学で、化学・物理学・天文学・生物学・数学・統計学・経営学・日本語・エンジニアリング・コンピューターと様々な講義を受け持つ事が出来ました。化学・物理・数学と渡り歩いた事が役立ったのは、この時が最後では有りません。びーむ:常識では考えられない様な取り合わせですね。それだけ学生さんにも人気が高かったという事でしょうか。
青谷:話が下手だったのか、最初の内生徒の評価は高くありませんでした。
Bay Areaは教官の売手市場で、仕事捜しは簡単でしたが、アメリカ人の数学力は驚異的に低く、いわゆるculture shockを経験しました。大学生にもなって、対数が理解できないのでは、どうしようも有りません。それでも最終的には、充分な適応が出来、我ながら教官としてまあまあだったと思います。学生さん達の評価も、一応それを裏付ける物でした。びーむ:今のは苦労話でしたが、逆に教えていて楽しかった事など如何でしょうか。
青谷:数学を教えるのは嫌いでしたが、日本語は楽しく教えました。
Berkeleyでは、三年生の日本語、MITでは、科学技術日本語を教え、大変良い経験となりました。びーむ:数学者が日本語を楽しんで教えたというのも、とてもユニークな現象なのでは?
青谷:祖父が神官、親父が国語の教員で、古文・漢文も含め、小さい頃から色々な日本語に接する機会が多く、高校でも国語は好きな科目でした。
びーむ:好きこそ物の上手なれですね。
San Francisco Stateで日本語教授法を修められたとも伺っているのですが。青谷:修めたというのは大嘘です。修士号くらいは取っておこうと思って、一時
San Francisco Stateの院に入ってはいましたが、残念ながら本職が忙しく、一学期で止めてしまいました。自分の様な門外漢を受け入れて下さった先生方に、今でも深く感謝しております。色々な人達とお知り合いになれ、それだけでも充分価値が有りました。又アメリカに戻ったら、勉強を是非続けたいと切望しております。びーむ:そうすると、
San Francisco Stateが五つ目で最後の大学院という訳ですか。青谷:五つ目はその通りですが、最後かどうかはちょっと。(笑)
びーむ:大変失礼しました。(笑)その様に研究・教育に打ち込んでいらっしゃったのに、一時
academiaに見切りを付け、また企業に入られましたね。その辺をお伺いしても宜しいでしょうか。青谷:訂正。「
Academiaに」ではなく、「academiaが」自分に見切りを付けたのです。自分にはBerkeleyの数学科や京大の理学部の教官になる力は有りません。程度の低い大学で、勉強しない学生を押し付けられるよりは、ハイテク産業でエンジニア達の相手でもしようと考え、AlamedaのGeoworksという携帯用通信デバイス関連の会社に、trainerという平凡なタイトルで勤めました。典型的なSilicon Valleyタイプの会社で、直ぐに仕事に慣れたつもりでした。しかし、プロジェクトが人生で、それ以外は眼中に無いという学者的アプローチは、会社の空気に馴染まず、自分の欲求不満も、会社側の不満も鬱積して来たある日、突然呼び出され、その場で解雇されました。働き始めてから僅か3か月でした。これが自分がアメリカで就いた最後の仕事です。人事のボスの“We want you to be happy.”は、誠意に溢れた言葉だったのか、窮極の皮肉だったのか、今でも分かりません。という訳で、ある種の消去法により、京都大学留学生センターに勤める事になったのです。びーむ:困難が有る度にそれを乗り越えてこられた努力と精神力には心底から敬意を表します。来月号から連載を始めて頂く訳ですが、最後にそれに付いて一言御願いします。
青谷:先ず、アメリカでの自分の故郷である
Bay Areaの皆さんに読んで頂ける事を非常に嬉しく思います。京都大学とUniversity of Californiaが学術及び学生交流協定を結んでいる事、京都大学とStanford大学が学術交流協定を結んでいる事、京都大学とUniversity of Californiaが講義交換を今秋より始める事、San Franciscoと自分の生まれた大阪市が姉妹都市である事、California州と自分の育った大阪府が姉妹州である事等、自分とBay AreaまたCaliforniaとの繋がりは非常に強く深い物が有ります。これを機に、Bay Area在住の日本人・日系人を始め、広く読者の皆様と「びーむ」誌上で交流して行けたらと思っています。Berkeleyにcondominiumが有る関係で、年に三回ぐらいBay Areaに参りますので、その折には皆様に直接御会いできるチャンスも有るかと、楽しみにしています。さて、連載の内容ですが、やはり国際交流等に関係した物と、京都大学を中心とした日本の大学事情・若者事情が中心になるかと思います。しかし、特別な枠は設けず、皆さんに楽しんで頂ける話や役に立つ情報など有りましたら、どんどん提供して行きたいと思っています。又執筆者自身も楽しめる様、徒然草風のessayや堅い論説調の物も時には書こうと思います。と言う訳で、皆さん来月からどうぞ宜しく御願いします。